1976年2月号 AUTOSPORT誌 レース人間:解良喜久雄

かいら・きくお と読みます。
当時、ヨーロッパに行ったドライバーがいましたが生沢徹桑島正美風戸裕、ときに高原敬武、畑川治氏
メカニックも結構行ってました。中矢龍二、森脇基恭、津川哲夫、伊藤敦夫氏、小野昌夫、
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 75年3月解良は2度目のイギリスの地を踏んだ。当分は桑島のメカニックをしながら働くつもりだった。・・・・
飛行機賃以外に、生活費として貯めておいた30万円を持って行った。桑島のマネジメントは全てロイ・ケネデイーがとりしきっている。
とりあえず、ロンドン郊外のハローにある彼のガレージ近くにアパートを借りた。
このアパートは1軒屋で、学生と二人との共同生活。ひとり2万円の部屋代を出し合って、自炊をしながらケネディーのガレージへ通うことにする。
生活費は日本より幾分安く上がる。
ケネディーとの契約は1週間45ポンド(約2万7000円)。食ってゆくことはできるが、毎週すこしずつ計40万円ばかりの工具を買い込んだので、生活はかなり苦しかった。
桑島とは3月のスラクスストン、4月のホッケンハイムと2レースをともにした。結果は・・・・
だが、その後日本に帰った桑島から、連絡がまったく途絶えてしまった。持っていてもラチがあかない。ケネディーも生活が掛っている。そんなとき、トム・ヲーキンショーが
「クワシマのマシンを改造してF5000をやりたい」と言ってきた。
オレはケネディーと桑島がどのような契約を交わしているのか知らない。とにかくケネディーに「マーチ752にフォードV6 3.4ℓエンジンを載せてくれ」と言われた。
この時点でウオーキンショウに雇われることになった。がウオーキンショウのマネジメントはケネディーがしていたから、オレの給料はケネディーが渡す。スポンサーは変わっても、支払い口は変わらない。ただし、週給は60ポンド(3万9000円)に上がった。
マーチ752をF5000に改造しはじめて1週間目の土曜日(給料日)、こんなことがあった。途絶えていた給料が、この日から貰える。
オレはパイプを金ノコで切りながら、ケネディーに「今日はお金をもらえるんだろう?」と言った。ケネディーは「今週はオレから出ないよ」という。
頭にきたオレは「じゃやめた!」といってパイプにノコギリがささったまま、ガレージを出て行った。そうするとケネディーがあとを追ってきて
「待て待て、悪かった。給料を払うから」。
このトラブルでオレが感じたことは、情熱も大切だが、プロ=商売に徹し切らなければこの世界では生きてゆけない、言うことだ。
自分の腕に誇りを持っている以上、毅然たる態度で臨まなければならない、ということだ。”まあまあ”という日本人的な感覚はまったく通用しない。
自分の技術を提供する以上、それに見合うお金は必ずもらう−という意識を徹底させなければ、生きてゆけない。・・・・

ほんとうは『けら』ですって。 あだ名はオケラ