MAKI F1続き ③

1974年3月15日、イギリス・ロンドンの最高級ホテル「カールトンタワー」ここで日本のプライベートコンストラクター、マキF1の参戦発表が行われた。ホンダが第一期の活動を終えてから5年。
久しぶりのニッポン・チームのF1挑戦に会場に集まった関係者の期待は高まっていた。だが、マキのスタッフが発表した内容は信頼性に欠けるものばかりだった。
「マシンの開発に1億円以上をかけ、5期のDFVエンジンを持ち、大型トランスポーターを所有し、将来的にはエンジンの開発も手掛ける・・・・・」
マキの実態は、それとはまったく逆だった。スポンサー企業の経営状態が悪化、マキは資金不足に陥っていた。しかも三村と小野が精魂込めて作り上げたF101が完全な失敗作だったことも明らかになるのだ。「今から思えば若気の至りなのですが」と小野は笑いながら前置きし、こう語った。
「当時、私がGCのクルマを造っていて、シグマではデビュー戦でPPを獲得したりして、それで変な自信があった。当時のGCでは、コーナーで遅くても、ストレートが速ければレースに勝てる。私は愚かにも、その思想をF1に持ち込んだ。ところがF1ではもっと大事なのはマシンの敏捷性なんです。向こうで他チームのマシンがテストしているのを見て、それが瞬時に分かった。私が日本で走らせていたマシンは、富士のバンクのあるところでは力を発揮したかもしれないが、F1サーキットは全く状況が違う。それを知らなかった
コンセプトが根本から間違っていた。さらに言えば、F1マシンを作る時には普通、本物のGPを身にいくでしょう。でも我々は1回も見た事がなかった。
もっぱら雑誌の写真から推察して、マシンを作った。あとは、タミヤのプラモデルで、パーツの構成をみたりとか、、、。雑誌と模型から情報を集めただけですから。
その結果、レギュレーションをきちんと把握することが出来ず、重くて大きなマシンを作ってしまった」
 









三村と小野は急遽マシンの大改造に取り組む。約4ヶ月で改造型マシンを作り、デビュー戦のイギリスGPに乗り込んだ。

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